1950-04-04 第7回国会 衆議院 考査特別委員会 第18号
○日高証人 それでは簡單に質問に答えます。原籍は福岡県糸島郡可也村稲留四百十四番地。現住所に原籍地に同じ。生年月日、大正四年八月二十一日、家業農業、いえに育ちまして村の小学校を卒業、爾後県立中学校に進みまして卒業、満洲大同学院の教授半田敏治氏に満洲に呼ばれまして、支那語の勉強をいたしました。爾後昭和十一年一月十八日福岡第二十四連隊に入隊、甲種幹部候補生に合格、爾後ハルピン歩兵第四連隊において見習士官勤務
○日高証人 それでは簡單に質問に答えます。原籍は福岡県糸島郡可也村稲留四百十四番地。現住所に原籍地に同じ。生年月日、大正四年八月二十一日、家業農業、いえに育ちまして村の小学校を卒業、爾後県立中学校に進みまして卒業、満洲大同学院の教授半田敏治氏に満洲に呼ばれまして、支那語の勉強をいたしました。爾後昭和十一年一月十八日福岡第二十四連隊に入隊、甲種幹部候補生に合格、爾後ハルピン歩兵第四連隊において見習士官勤務
○日高証人 三十四歳です。
○日高証人 はい。
○旦高参考人 ただいまの御要求によりまして、ごく簡單に、ただいま各方面で非常に注目をかつております、カラカンダ第九十九地区、第九分所における集会の概況を御報告いたしたいと思います。問題が起りましたのは、四九年の九月十五日午前十時前後だつたと記憶しております。場所はカザヒ共和国、カラカンダ第九分所クラブ、そのときの経過の概要を申し上げます。一九四八年の五月中旬、ちようど私がウスベツク共和国のアングレン
○日高参考人 ただいまの質問に、要点のみをお答えいたします。 今年度の第二回目の引揚船にも、希望でナホトカあるいはハバロフスクに残つていたと言われる引揚者が、七十名帰つて来ております。さらにまた私たちが、このたび二月の七日にナホトカを出発して来る際に、ナホトカの最終集結地に九十名が残つていることを、はつきり目撃もし、内容も確かめてみたわけであります。そのうちの約半数は希望をして残つている。また今度帰
○日高参考人 時間がないので、ごく簡單に要点のみに触れて、御報告いたしたいと思います。 私の入ソ後のラーゲルの経過と申しますと、まず第一番に中央アジアのウズベツク共和国ベガワト第一分所に入りました。次にペガワト地区第五分所、次にタシケント地区第九分所、同じくアングレン地区第六分所、次に最後のカラカンダ地区第九分所、及び十五分所を経て、最終集結地のナホトカ第三分所に移つて行つたものであります。 ベガワト